——三浦太郎というのはペンネーム?
子どものころから絵を描くのは好きで、乗り物や、バイクのエンジンの部分、新幹線なんかよく描いていました。家族で絵を描くのはぼくだけだったんです。絵を描くぼくを見て、親が、「お前の名前は、大阪万博で脚光あびてた『岡本太郎』からとったんだよ」ってしょっちゅういってましたね。でも、それは冗談で、ほんとはプロスキーヤーで登山家の三浦雄一郎さんのファンで、「雄一郎」って名前にしたかったみたい。でも、悩んだ末に結局、三浦家で最初にできた男の子だからってことで「太郎」です。
——美大を目指して
うちの店にあった本で印象に残っている雑誌は、「美術手帳」や「詩とメルヘン」などです。高校のとき、「illustration」という雑誌もでてきました。日比野克彦さんなどが活躍をはじめたころで、イラストレーター全盛期。とくに影響を受けたのは横尾忠則さんです。「イラストレーターって面白そうだな!」って思いながら過ごしていました。 そんななか、たまたま先生に呼ばれて「いまお前が志望してる大学にはいけないから、美大にいけ。お前は絵がうまいから」っていう話になり、その日から美術部に入れられて、日曜は画塾へ通い絵の特訓がはじまりました。いままで本格的に絵をやってきたわけじゃないから、とくにデッサンはたいへんでしたね。勉強よりもデッサン、デッサンの毎日でした。
結果、大阪芸術大学の美術学科に入学し版画を専攻しました。
大学はとても楽しいところだったけど、ぼくはあまりまじめな生徒じゃなかったな。学校にいくのはいつも3時すぎ。夜はクラブで遊ぶこともあったけどコンビニのバイトが夜の12時までだったので、それから朝方まで公募展に出すイラストを描いてました。いわゆる影勉タイプかな。学校にはあんまりいかないくせに、学園祭のポスターに選ばれたりして、大きなポスター作ったこともありました。4年のときに日本グラフィック展で入賞したことで、東京に出てイラストレーターをやってみようと決めました。
——波乱万丈の人生
そうそう、ぼくは、ボローニャで入選してから本格的に活動を始めたと皆さん思っているみたいなんですけど、実は大学卒業したあと、デザイン事務所に入って、広告のデザインやイラスト描いて、ばりばり仕事していたんです。
でも、寝る時間もないくらい忙しくて、ほんとうに自分がやりたい方向とは違うことになっていったんです。ぼくは器用なところがあって、相手のオーダーに合わせられちゃうの。こういうのを求められているんだな、ってわかるとそれに合わせられるんです。困ったことに、拍車をかけて忙しくなってしまって、だんだん仕事がおもしろくなくなっちゃってて……。ストレスで体の調子が悪くなり、結果的に30歳になるちょっと前くらいで、一度仕事を全部断り思いきってリセットしました。
三浦さんがお気に入りの海外の絵本。
——絵本の世界に入ったきっかけ
忙しく仕事をしながらも、自分の創作は続けていました。人生の仕切り直しをして、またイラストレーターとして自分の絵を描いていこうと思うなか、公募展があれば描きためた作品を出してみたいなと思ってたんです。そんなとき知ったのが、ボローニャ国際絵本原画展。板橋区立美術館でやっていた展覧会を見にいって、どうやらぼくも出品できるみたいだとわかり、出品を決めました。それが絵本をつくり始めたきっかけです。 ただ、ボローニャ展では5枚の絵(場面)の審査なので、流れのある絵本の絵、というのとはちょっと違いますが……。何度か入選を重ねるうち、絵本というものがみえてきて、こんな世界があるんだな、ぼくに向いているかもしれないな! と思うようになったわけです。
初めてボローニャ展に応募した作品。 絵本の場面展開でいうと、強弱、緩急が必要になるが、
展覧会に出品する作品は、インパクトを重視して考えるという。
——いらない部分を削り、シンプルなものをつくる
日本でのデビュー作『くっついた』は、娘とのエピソードがきっかけとなった作品です。最初のアイディアでは、単純に○同士△同士□同士がくっつくという、デザイン的なものでした。まだ幼い娘とのコミュニケーションのなかで、自分のほっぺと娘のほっぺをくっつけたら、ふだんなかなか笑わない娘が、笑ったんです。 じつは、ぼくは子育てに対してちょっと苦手意識があって、じょうずに向き合えてなかったんですが、この瞬間、なにかが変わりました。子どもがいないときに作っていたら、グラフィック的な絵本になっていたかもしれません。子育てをするなか、新たなアイデアを見つけた感じですよね。その後も、娘との生活からたくさんのヒントを得ながら、対子どもを意識して絵本作りをしています。
絵本作りにおけるいちばんのこだわりは、「盛り込まないこと」です。ぼくの場合、最初のアイデアの段階から、かなりシンプルなんですよ。タイトルも最初から決めていたりしますね。タイトルを決めると、そこからはずれられないんです。あとは、削っていくほどによさが出てくると思います。
イタリア、フランスなど海外で出版された絵本。
洗練されたデザインで、デザインが目をひきます。
——日本の絵本界事情
ヨーロッパでは、子どものうちからピカソなどの絵画をみせたりします。人生が豊になるって思いからなのでしょうね。でも日本では、これは子どもにはわからないんじゃないかといわれます。きっとそういってる大人のほうが、ピカソの絵を理解していないからなんじゃないかとも思えるんですが……。ぼくの絵本も、芸術的なものは、日本ではなかなか受け入れてもらえないんですよ。
でも、絵本を出していくってことは、自己満足だけではだめだってこともわかってきました。それまで、日本の絵本はほとんど読んだことなかったけど、たくさん絵本をみていくうちに、いい面がいろいろみえてきました。自分の子どもをもって、絵本がある子どもとの生活の豊かさもみえてきました。自分が作った絵本が、読者にどんなふうに読まれているのか反応も気になります。たくさん読んでもらえることが、創作する側のよろこびでもあるんですよね。最近、ぼくのシンプルなデザインと、日本らしいかわいいテイストがうまい具合に着地できるようになってきた気がしているのです。
絵本作家で食べていくことはほんとうに大変なことですが、幸い自分がやりたい傾向の絵本はまだだれもやっていないようなので、自分の表現を信じて楽しい作品をたくさん創作していればと思っています。
工作が好きなお嬢さんと一緒に、ラップの芯で作った汽車。
『ちいさなおうさま』(偕成社)に登場するおうさまを、木工人形で表現。
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