——いちばん好きなことは、絵を描くこと
高校は、柔道とは全く関係のない、工業高校。親も、お金ないから、高校を卒業したら働くのが当然って感じでした。危険物取り扱いや、電気工事士など、将来役立ちそうな資格もいろいろ取りました。でも、いざ、その後の進路を考えるってときに、このままどこかの工場に就職っていうコースがひっかかって、そこで初めて“自分のいちばん好きなこと”を考えてみたんです。
で、絵を描くことって思った。絵が好きで描いていはいたけど、絵画教室に入ったりしたことはなかったんです。ただただ漠然と、です。とりあえず美大に行きたいって思って、高3の春にに親に相談したんですが、案の定、猛反対にあいました。友だちはみんな就職決まっているのに、ぼくだけそんなこといいだすんですから。そこで、大げんかです。それまで親に口答えもしたことなかったけど、反抗期と相まって、「やりたいっていったら、やりたいんだー!」って叫んでましたね。
新聞配達してでも行くって決めたから、奨学金のことも調べました。そしているうちに、母のほうが折れて、「いいから行きなさい」って応援してくれるようになったんです。夏からは絵の予備校にも通って、1年絵の勉強して、名古屋造形芸術短期大学の油絵科に入りました。
そこで、壁! ですよ。まわりはみんな美大を2浪3浪してるって人たち。ぼくは、それまで絵の勉強をきちんとしてきたわけじゃないから、上手い人たちの中で劣等感が芽生えて……。
スケッチブックを持って散歩に。注意深く観察することが大事。
自作のくつ下人形。柄合わせがユニークで、愛情たっぷり。
——なんとなく、絵本
高3のころから興味があったのが絵本です。公募ガイドなんて見ていたら、「手づくり絵本コンテスト」とか、「○○絵本コンテスト」って、やたらあってね。主婦でもいい、なんて書いてあるし、これだったら、ぼくにでもできるかもって思いました。それまで、絵本をちゃんと見たこともないのに……。すごいですよね(笑)。で、描きました。恐竜の絵本。工事現場のおじさんが恐竜の化石を見つけて、町おこししていくって話。いきなりやっちゃった(笑)! 画材は水彩だったかな。ページ数のこともなにもわからないまま突入です。もちろん、入選なんて、するわけもなく(笑)。
そんなこともあって、大学に入ってからも絵本には、アンテナを張っていました。長谷川集平さんの『絵本づくりトレーニーング』(筑摩書房)という本が出ていることを雑誌で知り、どうしてもその本を入手したかった。ずいぶん探したんですが、静岡の田舎の町の書店には置いてなくて、結局あきらめていたんです。でも、ずいぶんたったあるとき、名古屋の書店でみつけんたんですよ。それがすごくうれしくてね。そのあたりから絵本にのめり込んで行くわけです。短大では油絵やりながら、絵本サークルにも入って、自作の絵本もつくりはじめました。このときも、まだ、なんとなくだけど(笑)。けっこう、まわりには評判よくってね、いい気になってましたね(笑)。学校では、2年から版画も専攻しました。
手づくり絵本の「おばけハウス」。切って貼ってつなげてめくって。
——短大卒業後の進路
美大を卒業するというとき、版画をやっていくのか、デザイン会社に就職するのか、大学院に進むのか考えたとき、どれもイメージしにくかったんですよね。とくに版画家はイメージわかなかった。外で版画家に会ったことないし、学校に残った場合、30歳くらいでも助手で、新人って呼ばれてるし。そのときぼくは20歳くらいだったから、「あと10年頑張っても新人!?」って考えると、くらくら〜っときちゃって(笑)。
そのとき、絵本ならどうなんだろって考えたんです。たまたま絵本サークルの仲間が、三重県四日市のメリーゴーランドという書店で開催される、今江祥智さんのレクチャーを聞きに行こう、と誘ってくれたので、一緒に行ってみることにしました。感想は、「へ〜え、こんなところがあるんだ〜」という感じ。そこには絵本塾もあると知り、じゃあ、応募しようかって。
——絵本塾でのこと
メリーゴーランドの絵本塾の定員は30人。前年から継続受講する人がいるので、ぼくが入った年の募集枠は、なんと3人! すごい倍率だったんですよ。審査の間、ちょうど大学の卒業旅行でメキシコに行ってたんですが、結果を早く知りたくて、親に国際電話したほど。受かったと聞いて、とてもうれしかったですね。
絵本塾の講師は編集・装幀家の小野明さん、編集者の松田素子さん、メリーゴーランド店主の増田喜昭さんの3人でした。毎回ラフをつくっていって、みんなで回し読みをします。それについて、みんなで意見を言い合います。宿題もなければ講義もない。ただ、ひたすらみてもらう感じです。2週に1回、なにかしら新しくして持っていくわけですから、けっこうしんどいですよ。それもけっこうネチネチいわれるし(笑)。終わりがないといえばない。衝撃的でした。
ぼくはそれまで、絵本作家の作品というのは、作家性あってのもので、最初に自分で作ったものが完成形。その作品をいかに出すかが作家だ! って思っていたんです。でも、絵本塾のやり方には終わりがない……。こね繰り回されて、ぼくの作品じゃない! って思いました。──いまでは、いろんな意見あって当たり前だし、編集者の意見も聞かないとね……って思いますけど(笑)。まあ、とにかく、編集者に会うのも初めてだったから、すごい貴重な経験をさせてもらいました。
でも、やっぱり悶々としてきて、「いつまでたっても、絵本にしてくれないじゃないか。自分で直接出版社に持って行こう」と友だちと相談しました。でもね、結局、小野さんに相談して、どこの出版社に持って行ったらいいか聞いて、編集者を紹介してもらいましたけどね。小学館、福音館書店、架空社、ぶんけい堂など持ち込んで、結局、ケチョンケチョンでした(笑)。
——デビューは大阪の解放出版から
あるとき、絵本塾に新人作家を探している出版社の方がいらして、みんなのファイルの中からぼくの絵が選ばれたことでデビューの運びとなりました。 内田麟太郎さんの文章の『つれたつれた』(解放出版社)という作品です。2000年、23歳のときのことです。
デビュー作『つれたつれた』。制作中は、友だちの遊びの誘いも断ったそう。
がんばりました! 柔道で鍛えた根性が役に立ったかな。でも、いかんせん初めてのことで、本が完成したときに、うまくいったのかわからなくて、うれしくもなんともなかったな。性も根も尽き果てた感じ。恥ずかしい気持ちのほうが強かったかもしれません。松田素子さんに、「いっぱいいっぱいなんじゃないの?」っていわれて、また、悔しい〜って思って(笑)。でも、そういうことがぼくのモチベーションをキープしていたのかも。いまでは本当に感謝してるんですよ。
メリーゴーランドは絵本屋さんだから、もちろん絵本がいっぱいあって、たくさんの絵本を見る機会もありました。あんまり絵本経験がなかったから、スズキコージさんや、荒井良二さん、飯野和好さんなどすばらしい作家さんたちの作品に出合えたのもラッキーでした。いちばん好きな作家は、絵なら大道あやさん。絵本としてなら、長新太さんの作品が好きです。
——ぼくを小学生から生き直しさせてくれた、学童保育のバイト
メリーゴーランドの絵本塾に通うかたわら、学童保育の指導員として6年間アルバイトをしました。そこの子どもたちは放課後やってきて、宿題したり、ごちゃまぜで遊んだりして過ごします。1年生から6年生までで、60人くらいいたかな。子どもだから毎日ケンカするし、トラブルは絶えないんだけど、上級生が下級生の仲裁に入る姿に感動することが多々ありました。下の子がケンカしてると、両方の意見を聞くし、なぜいけないかも諭すんです。ぼくは先輩や子どもたちにいっぱい教えてもらいました。自分ももう1回、小学校1年からやり直しさせてもらった感じです。そのころのぼくは、「絵本で生きていくんだ。友だちなんていらねー」と斜に構えて、子どもたちがケンカしてても、ただ「やめろー!」っていっただけでしたから。そんな経験は絵本つくりには関係ないけど、ぼく自身を成長させてくれたことはたしかですね。
——絵本作家になりたいなら、飛び越える勇気を
「絵本作家になりたい」っていいながら、こっちが「じゃあ描きなよ」っていうと、「もっと準備してから」「描き直してから」なんてことばかりいってる友人がいるんです。でも、それじゃあ、いつまでたっても前に進めない。失敗を恐れず、びびらず、「飛べー!」といいたい。結局、つくって出していく、それをやり続けるのが絵本作家の仕事ですからね。
カメの○○と愛猫の月影。ペットと遊ぶ時間がしあわせ。
─講談社から刊行されている石井聖岳さんの絵本―
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講談社の創作絵本
『ふってきました』
もとしたいづみ/文
石井聖岳/絵
空からふってきたものは、いったい……?
思わず笑顔になる絵本。 |
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講談社の創作絵本
『ヤドカシ不動産』
穂高順也/文
石井聖岳/絵
いらっしゃいませ!どのような うちを おさがしですか?
おまかせください、こちらは ヤドカシふどうさん。
おきゃくさまに ぴったりの うちを みつけて、ごしょうかいいたしましょう! |
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