後に、姉が小さいときに描いた絵がたくさんでてきて、それも興味深かったです。家族の情景をしっかり観察して、子どもらしく力強く伝えていて、なかなか上手いんです。私はといえば、お人形は力を入れて研究し描くけど、普通の風景や社会生活はまったくの手抜きで……。興味のあることにしか力を尽くせない性格みたいで。姉のほうが実際は絵がうまかったのだろうなあ(笑)。でも、姉がいちばん好きなのは絵を描くことじゃなく、私は絵が好きなのだから、私はずっと描いていていいんだ! と今も思います。ですよね?(笑)。
——小・中・高もずっとお人形や漫画が好き
自宅では父方の祖父母と伯母と同居していて、伯母は、お裁縫や編み物、手芸全般が得意でした。家には、毛糸編み機や足踏みミシン、そのころ伯母が作っていた日本人形の材料や手芸道具があって。私も小さいころから見よう見まねでなにかしら縫ったり編んだりしていました。生まれたときからお人形が好きな私には(笑)、好条件な家でしたね。私や姉の服を作り、日本人形も作る伯母の姿を見ていたから、私も、お人形も自分で作るものだ、という認識を持ったのかもしれません。
中学では、卓球部、英語クラブ、漫研にちょこっと所属したような気がするけれどあまり記憶にないので、入部希望で覗きに行ったけど活動せず、くらいの感じだったのかも……。
高校では漫研に所属していて、部員みんな、当時リアルタイムで発表される萩尾望都さんの『ポーの一族』にすっかり夢中になっていました。ページを開くといつも、すぐに時も国もこえて別世界に誘ってくれる、文化の香り高いほんとうに奇跡のような衝撃的な作品でした。『ポーの一族』や『トーマの心臓』今も変わらず大好きです。まるで神さまのような存在の萩尾望都さんでしたから、大人になって絵本作りでご一緒できるなんて(「トリッポン」シリーズ 教育画劇)、夢のようでした! 自作の漫画もちょこっと描いてみたけ……、内容はよく覚えてないです。きっとあまり抑揚のないお話だったのかなあ。暗ーいお話? かなきっと。
大学進学を考えるときに、美大がいいと思い、高2の後半から美術部に入りました。美大へ行くならデッサンもやらなきゃいけないでしょ。だから入った美術部だったけど。
ところが、このデッサンがすごく楽しかった! 石膏を見つめて、少しずつ少しずつ紙の上に作っていく作業が本当に大好きで。最初は漠然と熊本大学の美術科に行こうかなと思ったけど、すぐにやっぱり芸大にしようと思って。そこからはとにかくひたすら描いていました。当時の国立入試は、文系の学科なら、理系のテストはなかったので、芸大は3科目のみでよかったの。だから、夜遅くまで油絵描いて、朝早くに学校へ行ってデッサンして、数学の時間は寝て、放課後は美大受験のためのデッサン教室へ行ってーーそんなふうに一日中絵を描いて過ごしていました。夏休みには、東京の美大系の専門学校で夏期講習も受講しました。
そういえば、講談社フェーマススクールズの課題に応募して、「絵をすぐに始めたほうがいい」なんていわれ、受講したんです。高校2年のときだったかな。そのときに油絵具買って始めたのが最初だから、美大受験のきっかけはそこにあったのかもしれませんね。
——絵の道で生きる決心
浪人時代も変わらずずっと描き続ける日々だったけど、そのころ夢中になって描いていたことは、今もやっぱり役に立っているかな。だけど芸大しか受けていなかったので、親に、もういい加減に浪人はダメといわれて、3年目には私立も受けました。それで東京造形大学油絵科に入りました。造形の1年間すごく楽しかった! そのままいるつもりだったのですが、共通一次(国立文系でも、理系科目が試験に入ってくる)が導入される直前で、芸大にトライできるラストチャンスの年だと思って、もう一度だけ芸大を受けてみました。気軽な気持ちだったからかな、今度は受かって、芸大油画科の1年生になりました。
芸大も楽しかったです。油画科だけど、3年のとき版画を専攻。ちょっと版画のお勉強をして、でもまた4年のとき油画に戻りました。絵本の作品は主にアクリルで描いているけど、長く描いていた油絵のマチエールはやはり懐かしくて大好きです。いつかまた描いてみたいなあと、今もちょっと思います。難しいかなー。
大学3年くらいからかしら、『くまのプーさん』や『ナルニア国物語』『床下の小人たち』など、児童文学漬けになっていました。熊本では家にある児童文学全集みたいのしか知らなかったので、なにもかもがめずらしくて新鮮で、とにかくたくさん読みました。イギリスの児童文学はなんておもしろいのだろうと驚き、『トムは真夜中の庭で』や、特にファージョンのお話全部が大好きになりました。小さいころに知らなかった本が多いからなおさら、本を読むことが楽しくて止まらなかったのでしょうね。図書館でめいっぱい借りてきてすぐに読んで取り替えに行く、至福の時間でした。
あと、大学では美術の作品を作る。でも、夏休みだけは、お人形作ってもOK! 少女趣味OK! と自分で規則を決めていて、休みにはいると相変わらず人形を作ったり、描いたりしていました(笑)。
——外国へ行くために、必死のお勉強
芸大の油画科をでても将来をどうしたらいいかとても難しくて……絵で食べていくことは至難の業だし、だからといって就職もあまりする気はなかったので、もう少し絵を描きながら将来を考えたいと大学院を受けました(執行猶予を延ばしてみる試み)。
そうそう、「こみねゆら」というのはペンネームです。大学院の合否発表までの期間、落ち着かなくて心配が募ったので、好きな漫画を描いて時間をやり過ごそうと思い、描いてみて、できあがった作品を投稿するときに考えた名前です。本名を並べ替えてピックアップして作ったのだけど、大好きな漫画家・大島弓子さんの『バナナブレッドのプディング』の主人公、三浦衣良(みうらいら)ちゃんとちょっとリズムが似ている? ので、うれしくてそれに決めました。漫画用に作ったペンネームだけど、そのままずっと使っています。
大学院に入ったころには、心はすっかり「留学」に向かっていました。相変わらず執行猶予を延ばす試み(笑)。浪人の頃からずっとパウル・クレーがいちばん好きなので、行きたいのはスイスかドイツ。そこでドイツ語を始めたけれどどうしてもドイツ語の音に馴染めなくて、ふと、フランス語はどうだろう? と始めてみました。不思議なもので、フランス語は学習意欲を刺激し、すっかり虜になりました。2年間アテネフランセでしっかり学びました。
真剣学習の甲斐あって、フランス政府の給費生として合格したけれど、フランス政府が財政難を理由に1年の延期をいってきました。それで、イラストを描いて雑誌「MOE」に応募してみることにしました。イラスト描くことがものすごく楽しくなって、いっそこのままイラストレーターになろうかな? と思ったら大使館から突然の電話で、すぐにもフランスに行っていいとのこと。慌ててアパートを引き払って、あこがれのフランスに出発。1985年のことです。
——8年間のパリ暮らし
パリでは14区大学都市の日本館に住み、パリボザールに通いました。なぜかタピスリーのクラスに入れられていたので、紙と糸で立体作品を作りました。crous(クルース)という留学生のお世話機関で、給費をもらう手続きをして、その給費で細々と暮らしていましたが、少しずつ貯めて、蚤の市に行き、大好きなアンティークドールやぬいぐるみを見たり(ジュモー※はひとつ買っちゃった!)、カードを買い集めるのがしあわせでした。
※ジュモーとは、フランスのビスクドールの有名な工房。
パリの蚤の市で集めたエイプリルフールのカードコレクション。
フランスでよかったことは、美大生は美術館がタダで、好きなだけ絵を見られたこと! ルーブルにファン・デル・ウェイデンの小さな絵がある大好きな小部屋があって、そことイタリアの壁画だけ見てさっと退出。実に贅沢な見方でルーブルに通っていました。中世の壊れたお城のようなクリュニー美術館には、昔のタピスリーが多く展示されているのですが、古い布やきれはしなどが引き出しの中にひっそり並んでいて、それもそっと引き出して見ることができます。もう自分のお部屋(♡)という気分で、週に何日も通いつめていました。ゆっくりゆっくりした時間が流れていましたね。今思い出しても飛んで行きたくなります。飛行機嫌いだから飛びたくないけど。
1986年からは、パリ4区サンルイ島の目の前のシテデザールに住みました。ここは美術と音楽の外国人の為のアトリエ兼住まいでけっこう広くて心地よかったですよ。ボザールは銅版画のクラスに編入し、次の年はパリ8大学に通いました。シテデザールの共同アトリエではシルクスクリーンをやったりもしました。でも、やっぱり、お人形と本は好きで。大学の勉強の合間にお人形を作ったり、イラストを描いて過ごしていました。
小指の先ほどのちびちび人形に個性と命を吹き込む。
魔法の指先が作り出す、ゆらワールド。
——絵本を描くきっかけは、「MOE」への投稿
パリでは絵本のブックフェアにもでかけました。そこに小さな出版社がブースを出していて、瀟洒な布貼りの本や、心のこもったデザインの本が飾られていました。それを見たときに、ここから本を出したいなって思い、話してみました。以前に「MOE」に出した絵を見てもらったら一緒に本を作りましょうということになり、初めての本はパリから出版されることになったのです。1992年『Les deux soeurs』、ふたりの姉妹という本で作家デビューとなりました。文はコーザ・ペレリさんです。コーザ・ベレリさんとは他にも3冊の本を出しました。
フランスの出版社で出された初めての絵本『Les deux soeurs』。
パリに暮らしているあいだに、「MOE」にイラストエッセイ「ゆららParisだより」を2年間連載していただきました、楽しかったー! きっとそのおかげですよね、帰国後も絵本や挿絵のお仕事をすんなりと始めることができました。帰国したのは1994年です。
——やっぱり描くのも作るのも好きだから、そうして生きていこう
絵本を作るのは、真っ暗闇の中を一歩一歩すすんでいる感じがします。現実の世界とは違う、その本だけの小さな道。最初のうちはなにも見えていなくて手探りで、はたして出口に行き着くのかさえわからなくて。いつもそんな感覚で、絵本に取り掛かります。ときどき途中で、あーダメだ〜この道はどこにも通じていないかもしれないと引き返したくなるんです。あわてて最初の地点に戻り、また歩き始めようとするのだけど、ふと、今まで作ってきた道でもいいのかもしれない、と冷静な気持ちになって世界が見えてきて……。そんな行きつ戻りつで作っています。ちょっと苦しいけど、とても好きな時間です。
『にんぎょうげきだん』(白泉社)という作品では、出だしの2行が浮かんだら、あらかじめ決めていた登場人物たちが無理なく演じ始めてくれて、ゆっくり静かに絵本が動き始めました。
『ふゆねこ』(講談社)は、お母さんを亡くしたばかりのちさとちゃんのもとへ、雪のようにまっしろいねこが訪ねてくるお話です。文はかんのゆうこさん。ちさとちゃんの悲しみを、どうしたらほんの少しでも和らげてあげることができるだろうと、ずっと考え悩んでいました。なかなかわからなかったけれど、ふゆねこになったり、おかあさんの思いになったりしながら、そっとゆっくりちさとちゃんの手を、温めることを願いながら描いていたら、お話の意味が見えてきたように感じられました。
作者の思いは……。例えば長いお話の挿し絵の場合は、好きな物語の世界が、挿し絵を眺めるだけでもう一度広がり、感じ取れるよう願っていて。絵本の場合は、絵と文とが緊密に重なり合い、ひとつの本という形の織物を織るように作れたら……と思います。難しい願いですがーー。
——これから挑戦したいこと?
絵本は一生かけてやりたい仕事だけれど、ほんとに難しいです。ほんとうに難しいけど、作りたいと思えることをものすごく幸せにも感じています。
「絵本、難しいなあ……作れないわ」と思いながらも、束見本を見るとドキドキします。すごく作りたくなる! 今やりたいのは、ミニ絵本かな。密度濃く、ときにしっかり描き込んだりして。手作りミニ絵本の展覧会もしたいです!
絵本新人賞などの審査員をするようになって、思うこと。作品の中に作者がその人らしく存在し、その人らしく試行錯誤し積み上げてきたなにかが出ている作品。途中でいろいろなアイデアが生まれてきて、そのアイデアが作者を次のステップへとひきあげたり、成長させたりするような相互作用のある作品。そんな作品と作者に出会うと、勇気がでるし、とてもうれしい思いがします。
絵本作りを始めた方にいいたいことは……ゆっくり長くやりましょうということ。人の思いは複雑だから、しっかり走るときもあれば、ゆっくり休みみつめる時も必要だし。どんな瞬間も大事にして、ちゃんと自分らしく努力する方法やその楽しみ方を見つけていければ、それ自体ですでに幸せなことかもしれないですよね。
─講談社から刊行されているこみねゆらさんの絵本―
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『ふゆねこ』
かんのゆうこ/文
こみねゆら/絵
雪のふる日にやってきた、まっしろい訪問者
お母さんを亡くしたばかりのちさとのもとに、ある日、ももいろのマフラーをした猫がやってきて……。四季ねこえほん・冬。 |
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