——僕の絵心VS.父の絵心
幼稚園のころ、父に帳面と12色入り「王様クレヨン」を買ってもらったんだけど、僕はきれいな色に感動して、寝床の中でもずっと絵を描いてました。鼻の穴にそのクレヨンを突っ込んで、クレヨンの特有の匂いをかぎながら寝りについた記憶があります。
小学1年のときだったか、黒いコンテで絵を描くという宿題があって、温度計がついたオルゴールを描いて父親に見せたら、なぜだかカンカンに怒って、その絵を破ってしまったんです。実は父も絵が好きで、彼の絵心に対して僕の描いたものが不合格だったんでしょう。それは悲しかったですね。父は機嫌がいいと、かっぱの美女が裸で露天風呂に入っている絵など描いてました。
当時、近所のおばさんが趣味で絵を描いていて、自分が好きなゴッホの画集を僕に見せてくれたことがあったんです。ぐるぐる巻きの糸杉が、ぐるぐる回転して星空に溶け込むような感じの絵があって、それがすっごい衝撃的だった。それから、自己流でゴッホみたいに描くようになりました。
浜松の松菱デパートでやっていた、放浪の天才画家・山下清展覧会に母親が連れていってくれたことも僕に大きな影響を与えています。会場はものすごい人でね、フラフラで見終わって、絵はがきも買ってもらって。とにかく感動しました。ゴッホといい、山下清といい、あのすき間のない絵、いまの僕の画風の原点ともいえるね。
——自由奔放な高校時代
中学のころ学校で、「大きくなったら何になりたい?」って話になり、「僕はパリへいって絵描きになります」っていったのね。そしたら、放課後、上級生が「生意気だ!」って殴りにきたけど(笑)。まあ、田舎にいちゃだめだ、ここからでるんだって気持ちが芽生えていたんですね。
高校での部活は、美術部。油絵など描いていました。黒い学生服には、油絵の具があちこちにこびりつき、髪の毛はボロぞーきんのようで、電車に乗ると、近くに人が寄ってこなかった(笑)。
面白い友だちがいっぱいいて、自由にのびのびやってました。授業中も教科書などの文字のすきまに描き、スケッチブックを小型に切ってホッチキスで止め、それにビッチリ絵を描き、マンガ本作ってました。後ろの席のヤツにそっと渡し、クラス中回し読み。放課後には、他のクラスのヤツもやってきて、「ぜひ、もっとエロッチックなのをだしてくれ」といわれることもありました。
そうそう、このころ、すでに『サルビルサ』原形ができていたんです。クラスでサルビルサ語で話す、というのが流行っていて、それはもうむちゃくちゃ語で、例えば、「ノート貸して」は「ジモ レビ ビルサ カス ノート」ってな具合。生徒たちはノリで伝わるんですが、先生は困ったでしょうね(笑)。そんな言葉が飛び交うんですから、すごい教室ですよ。
2011年9月渋谷でのライブペインティング作品。
——レオナルド・コージ「巴里帰国展」
家は狭かったんだけど、どうしても自室がほしくなって、押し入れならいいじゃないかと思い、自分の思うままに改装。サーチライトをつけ、天井から消しゴムや定規、鉛筆など、ゴムもひもでぶら下げて、何でも手が届く、人工衛星のようにしてました。そこにポータブル電蓄を持ち込んでジャズ、シャンソン、などのレコードを聞きながら、詩や絵を描いていました。
ある夜、その人工衛星の中でひらめいて、パリのエッフェル塔やカフェがある、オムレツの匂いが流れる雰囲気の絵を墨汁で三十枚ほど、一気に描きあげたの。それを、無届けで学校の廊下の壁に貼り出したんです。題は、レオナルド・フジタならぬ、「レオナルド・コージ巴里帰国展」。無届けってことがかすんじゃうくらい、みんなに大いにウケて、放送部まで取材にきました。「いつ鈴木くんはパリにいったんですか?」「えーと、押し入れ型人工衛星に乗ってぴょーんと飛んでいったように記憶しています」などと、こたえてました。おかしかったよねー。
——僕のゲージュツ、ロレロレロ〜
秋の文化祭が近づいてきて、生真面目な生徒会長が僕に会いにきたことがありました。「鈴木くん、今度の文化祭の大きな立て看板の絵を、お願いしたい」ってね。テーマは「友情」と「連携」そして明るい「未来」。四畳位のベニヤ板用意するから、思う存分描いて欲しい」と。もちろん僕は快く引き受けましたよ。で、描いたのは、両手を前に出し、舌ベロをふるわせてニヤけているロレロレ人。完成したその看板見て、生徒会長は青ざめて、わなわな震えてた。
文集の表紙を頼まれたこともあって、そのときのテーマは「明るい未来の若者たち」。で、すっぽんぽんの裸で、男女が跳躍しているところを描いたんだ。いやー、いい絵だったけど、それも即、ボツ。
そしてある日、苦手な数学の先生が、テストの答案の結果を皆に配って、最後に「鈴木、後で職員室へ」というので、おそるおそるいってみると、先生の両手に僕の答案。12点って書いてあったから、僕にしてみたらいいほうじゃないか思ってたんだけど、先生はぶるぶるふるえていて、先生の額の青スジもピクピクしていて、「こ、この答案は、絵だーっ!」っていうんですよ。XYZやら△やらね、みんな絵になっていると。僕としては、必死に解答したつもりが、これには本当にマイったね。だけど、この先生は、僕の表現を絵と認めてくれた最初の人なのかもしれない、と最近、思うようになってきた。
渋谷の展覧会場のようす。切り絵のロレロレ人たちがそこかしこに。
——「あーゆう人になっちゃいけないよ」
絵の具がこびりついた学生服のまま、革靴を脱いでハダシでお面を被り、放課後、市内の歩道を歩いていると、向こうから親子がやってきたんですよ。その親子とすれちがう際、親父が息子に「あーゆう人になっちゃいけないよ」というのが聞こえてきました。本の題名にしたいくらいの、ものいいですね(笑)。
またまたある日、親類のおじさんが、瓦粘土を庭にどーんと盛ってきてくれたことがありました。僕は嬉しくて、等身大の魔法使いを作るしかない! と、家族が寝静まったあと制作にかかりました。上からロウソクもたらして、完成したのは夜中の2時ごろ。僕としてはすごい作品になったから、朝どうなっているのか気になって、起きてすぐに見にいったんですね。そしたら、粉々に砕け散ってるわけですよ。母親曰く、父親が見るなり激怒して、跳び蹴りで全部破壊してから会社にいったと。僕がまた、自分の理解し難い作品を作ったことがゆるせなかったのか。父親の感性とはどんどん違う方向へいってしまうことへの憤りだったのか。そのときの悲しさも忘れられません。
——めざせ! アカデルミック
高校卒業後はもちろん絵でやっていきたかったから、一応、東京の美大受験はしました。東京芸大とか、武蔵野美大とかね。最初っから受かるって気はなかったですよ。アカデミックなことはぜんぜんダメで、自分は「アカデミック」ならぬ「アカデルミック」路線。垢が出るほうね(笑)。石膏デッサンとかちょっとやってみたけど、まったく面白くなくて……。武蔵美の試験のときに、「武蔵美に入ったらどんな活動しますか?」という質問があって、僕は「魔法画家になるんだ」って書いたの。絵も添えてね。面接のときも、乞食のスナフキンみたいなスタイルで、黒いジャケットに時計のぜんまいジャラジャラ下げて、三角帽子をかぶり、汚い長靴というスタイルで……。僕の順番が回ってきて、「武蔵美に入れなかったらどうしますか?」って聞くから、「天ぷらやに就職するって話もありますし」って答えたの。そしたら、「それはよかったですね」って(笑)。そんなんで、受験はボロボロです。
画材のアクリル絵の具。速乾性が気に入っている。
——運命の出会いは一生の宝になって
結局、東京に出て、赤坂の天ぷら屋さんに住み込みで働きました。働きながらも絵は描き続けていましたよ。19歳のころです。当時平凡出版(現マガジンハウス)におじがいて、堀内誠一さんに僕の絵を見てくれないか、と頼んでくれたんです。堀内さんは、雑誌「平凡パンチ」のアートディレクターで、他に絵本作家、編集者としてもひっぱりだこの人でした。
その堀内さんが「絵を見せてもらいにきました」ってほんとに天ぷら屋にやってきてきたんですよ! で、僕が描きためていた絵を天ぷら屋のカウンターで見てくれて、すぐに気に入ってくれて、絵をかついで帰っちゃったんです。翌日電話がかかってきて、「平凡パンチ」女性版の創刊号(「anan」の前身)に僕の絵を載せてくれるっていうんですよ! 感激でしたね。
堀内さんは、僕の絵は「絵本に合うんじゃないか」と、思ったようなのね。それまで僕は絵本のことよく知らなかったけど、堀内さんの仕事場の書庫の絵本もたくさん見せてくれました。僕は「冒険王」とか「少年」とか「赤銅鈴乃介」のような漫画しか読んでこなかったから、こんなに面白い本があったなんて、驚きでしたね。そして、福音館書店も紹介してくれたんです。
そして僕の激励会も開いてくれた。参加したのは、瀬川康男、福音館書店の松居直、瀬田貞二、長新太、なぜか音楽家の服部良一までいて、ものすごい面子です。そばにいるだけで、その後光というか、伝わってくるものがあるんですよ。その方々とはその後もお付き合いがありましたが、みなさん、やること成すこと面白くてかっこいい。遊び上手で、懐の深い優しさ、人間の幅の広さがあった。とくになにかを教えるというわけではないんだけど、その人たちのそばにいるだけで、その生き方だけで十分という感じでした。
出会いって、不思議ですよね。堀内さんに会わなかったら、いまの僕はない。きっと、絵は描いてると思うけど。僕にとって、必要不可欠なものだからね。ユニークな才能あふれる人々との出会いは、運命の出会いでした。宝くじに当たるより、いい運だったと思う。
——絵本に向き合う
最初の絵本は、世界文化社からでた『ゆきむすめ』。僕が23歳のときです。堀内さんから出版社への推薦もあったけど、自分でも売り込んで、「僕、明日死ぬかもしれないから、仕事ください」っていったみたいなの。当時の編集長にあとでいわれました。「面白い人に死なれちゃ困るから、仕事させなきゃ」って思ったって。絵本の絵は初めてで生みの苦しみはあったけど、ハリキッて描きました。描き直しなしでいけましたよ。いま見てもあきれるくらい初々しい! 雪景色はこのころから得意だね。
僕はそこからずっと絵を描き続けてきたんだけれど、気づいたら絵筆を動かしてきたって感じかな。「絵本作家になるには?」って質問もよくされるけど、だれかに教えられることはなにもないの。マニュアルもない。自分のオリジナリティ、直感でやっていくしかない。そう、感性がいちばん大切なんだよね。それを表現し続けるって仕事だよね。だれかの真似とか、絵本っぽいものを作るんじゃなくてさ。
手作りの飛び出す絵本。
——絵本は妊娠・出産みたいなもの
僕にとって絵本を描くことは、女性が妊娠・出産するような感じに似ているかもしれません。受精は「おお!」といったひらめき。妊娠は、そのひらめきが、五感を使った毎日の生活のなかで成長するもの。それがぽんぽこ膨らんでいって、火山が爆発するみたいに出産となるの。編集者はお産婆さんみたいなものね。生む喜びを知った僕は多産型だよね。僕が生んだ子どもたちが世の中に飛び出していって、あとはひとりで歩いていくのね。あとは、読者というみなさんの暖かな愛情に育てられるのかな。その子どもたちが、いまでは、僕にささやかな印税という仕送りまでしてくれるようになりました。そのように、みんな出来のいい子どもたちだったらいんだけど(笑)。
「ぼくらの原始力展」(中野ポレポレ坐)でのライブペイントのようす。
横5m×縦3.2mの圧巻サイズ。
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2011年11月02日(水)〜11月18日(金)、新宿にあるギャラリー、コニカミノルタプラザ で、スズキコージさんの原画展が開かれます。初期作品と近作の絵本原画、立体的なオブジェなどの展示と、初日から数日かけて描き下ろすライブペインティングも!
詳細はhttp://konicaminolta.jp/plaza/
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