——旅先で知りあわれたんですか?
20歳の頃、円空(※1)という彫刻家の作品を訪ねて、1年ほど岐阜県の飛騨高山市の民宿で働きながら滞在していたんです。そのときIさんと知り合いになったんです。それっきり会ってはいなかったんですが、10年以上、イラストつきの暑中見舞いと年賀状はかかさず出していたんです。旅先であった500人くらいの人にそんな風にしていたんだけど、ぼくが結婚したとか、子どもができたとか、みんなわかるでしょう。親近感をもっていてくれたみたいなんですね。それで作品があるなら、会社のしかるべき部署の人に見せるよとおっしゃっていただいたんです。
——その当時、もう絵本は描いていらしたんですか?
それがへんな話ですけど、会社をやめることなったとき、長男が「お父さんが会社をやめることになったから、ぼくも保育園をやめなきゃいけなくなった。」って保育園の先生に宣言しちゃったんですよ(笑)。それで息子に保育園やめなくてもだいじょうぶだよっていったんだけど、「お父さんが、会社をやめたんだから、ぼくもやめて家にいる」って、なかなか納得しない。そこで「お父さんは、こういうことを(仕事として)するんだよ」と見せるつもりで絵本を描いたんです。
——へえ、お子さんを説得するために絵本を描かれたってことですか。おもしろいですね。それが、『ばあちゃんのえんがわ』なんですね?
そうです。『ばあちゃんの縁側』って題で、原形はもうできてましたね。ほかに木彫りの写真絵本が数冊あったので、Iさんからの話をきいて、まとめて講談社に送ったんです。それが2月のこと。けどなかなか返事がこなかった。1か月すぎたので、もういいでしょうと引き取りにいったら、そのとき応対してくれたUさんという方が、文が多いから、そこを直して絵本新人賞に出したらと薦めてくれたんです。
——それが受賞へとつながるわけですね。
ええ。しめきりまで2か月くらいしかなかったので、急いで規定にあわせて描き直したんです。当時の応募規定では、最初は原画を写真に写したものを送付して審査を受けて、1次選考を通過した人だけ原画審査を受けることになっていました。
大急ぎで絵を描いて、撮影して、なんとかフィルムを提出したんですが、どうも出した絵が気に入らなくて。もちろん通過するかどうかなんてわからなかったですけど、それから2回描き直したんです。だから原画審査を受けたのは、(フィルムの絵とは)別の絵なんです。
——それは、ものすごいパワーですね。
7月中旬に「受賞されました」って連絡あったので、てっきり佳作だと思って聞き直したら、新人賞だっていわれて。新人賞だと本を出してもらえるでしょ。でも、刊行の時には11見開きのものを15見開きにしたいってことだったんです。それで、もう1回全部描き直したんです。8月の授賞式には完全に描き直したものを持参しました。
——(絶句)!!!!
そしたら新人賞を薦めてくれたUさんが、すごくおどろいて、文章も含めて「直すところ何もないね」っていってくれた。それで10月には、そのまま絵本として刊行されたんですよ。
——それはすごい! そんな話、聞いたことないですよ。そこまでのエネルギーもすごいですけど、できた絵本の完成度も高かったってことですね。この本の主人公のばあちゃんって野村さんのおばあちゃんがモデルなんですか?
そうです。大好きだったおばあちゃんの面影を描きました。それから、あの縁側もおばあちゃんの家です。だから絵本の中の世界がすみずみまで、自分の頭の中にありましたね。このお話、最後におばあちゃんが縁側でうとうとして、「おばあちゃんの名前はふねっていうんだ」という落ちになるんですけど、こういう落ちは落語の影響です。落語も大好きだったから。自分の中にあるものをうまく出せた作品だったですね。そういえばふしぎな話ですけど、新人賞受賞の通知をもらった日は、おばあちゃんの命日だったんです。
そういうふしぎなめぐりあわせがいっぱいあって。そういえば、さっき話した飛騨高山市の民宿には、当時小学五年生の娘さんがいたんですけど、その子が後に映画のプロデューサーになって作った映画が『風のじゅうたん』なんです。その縁で絵本『風のじゅうたん』を作ることになったんですよ。
——『ばあちゃんのえんがわ』の時に、すでに野村さんのスタイルは確立されていたような印象です。いつごろから木彫とか版画を始められたのですか?
15歳のときに、円空に出会って木彫を始めて、20歳のとき、子どもの遊びをテーマにした初めての個展をしたんですが、飾り終えたら壁面のスペースがあいていたんです。それももったいないから版画で飾ろうと。無我夢中で子どもの風神・雷神を畳1畳の大きさの版画に彫ったんです。そうしたら、なんだか版画の方が評判が良かったんです。それでこれもいいなあと。
——サラリーマン時代はデザインをされていたとのことですが、創作活動自体は、その前からすでに始められていたんですね。美術は独学ですか?
ええ、高校を卒業して上京して、まず印刷会社に就職しました。あのころ『紙は文化のバロメーター』という言葉があったんですよ。それで、まずは紙のそばで仕事をしたいと。まだアナログだった印刷の現場で3年間働きました。名人芸の職人さんのそばで、印刷や製版のことを学べたのはすごく役にたちました。こういう風に印刷機に色を盛っているんだとか見られましたから。だからいまでも原画に色を塗るとき、「この色は印刷ではこういう風に出るだろう」って計算しながら描くことができるんです。それと平行して、最後の頃の日宣美(※2)に応募したり、講談社フェーマス・スクールズを受講したりもしましたね。それから、有名イラストレーターに弟子にしてくれと押しかけたこともあります。
—ええ! 野村さんが押しかけ弟子ですか??
はい。のちに大ブレークすることになるイラストレーターのYさんの絵が、ほんとに大好きだったんですよ。当時はまだ知る人ぞ知るって感じでしたけど。「弟子にしてください」とお手紙を書いて、ご自宅に伺って作品を見てもらったんです。
—度胸がありますね。で、お返事は?
もちろん弟子はとらないって、断られました(笑)。
「手紙はたくさんもらうけど、ほんとうに来た人は初めてだ。」とも。それ聞いて、不思議なんですけど「やったあ。おれが初めてなんだ」って思ったんです。
「あなたの作品は、(イラストレーター業界に)むいてないかも」といわれても、「うわ、Yさんがちゃんと真剣に、おれの作品を批評してくれてる。やったあ。」って。
いや、なんかあつかましいところがあるんですね。お会いできただけでもうれしかったし。
でも、いまになって思うのは、そういう時、「自分の心がどう動くか」だと思うんです。批判されるにしろ、アドバイスされるにしろ、その内容より、それでどう自分の心が動くかが大事なんです。
—自分の心が、それにどう反応するかってことですね。
あの時、ほんとうにやる気というか、創作意欲がすごくわいてきたんです。Yさんにとっては、めいわくだったかもしれない。ただそれでも礼儀はちゃんと尽くしました。だから会ってもくださったし、弟子ではないけど人としてつきあってくださったと思うんです。帰郷する前には、ぼくのデザインでYさんの事務所の封筒を作る仕事をくださったんですよ。
—う〜ん、深いなあ。
(以下、来月に続く)
※ 1 円空(1632−1695)江戸時代初期の天台宗の僧。独特の仏像彫刻で知られ、生涯に12万体の仏像を彫ったといわれる。
※ 2 日宣美 日本宣伝美術会の略称。日本グラフィックデザイン運動の一翼を担った団体で1951年に設立された。毎年展覧会を開催し、53年からは作品公募を開始、新人の登竜門となる。デザイン史に残る多くの名作を世に送りだした
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